2009'10.27.Tue.00.07
こんばんは。
さっき、卒論が一段落し、ほっと一息ついているところです。
まだ本文の英訳が残っているんですが、そんなに膨大な量ではないし、今までの経緯からすると、滞りなく進みそうなので、とりあえずは一安心。
ずーっと頭の中でぐるぐるしていた考えが、言葉となって出てきてくれたことに、今はただただほっとしています。
春から、長かったー。
まだ終わってはないんですが、ちょっとだけ肩の荷が下りました。
英訳は、単純作業なので、参考文献をインプットして考えをアウトプットする作業よりも簡単だと思われます。
よし、明日教授のとこ持って行こー。
今週末にもう一つのチームの『十二夜』観劇を控え、私の中での『十二夜』熱は最高潮です。
なんてったって、寝てもさめてもヴァイオラのことを考えざるを得ない状況…(笑)
机の上には、論文のコピーが散らばってますが、全部彼女についての論文です…何度この名前を読み、書いたことだろう。
ということで、ちょっぴり何か考えて見ましょうか。と思いました。
↓
さっき、卒論が一段落し、ほっと一息ついているところです。
まだ本文の英訳が残っているんですが、そんなに膨大な量ではないし、今までの経緯からすると、滞りなく進みそうなので、とりあえずは一安心。
ずーっと頭の中でぐるぐるしていた考えが、言葉となって出てきてくれたことに、今はただただほっとしています。
春から、長かったー。
まだ終わってはないんですが、ちょっとだけ肩の荷が下りました。
英訳は、単純作業なので、参考文献をインプットして考えをアウトプットする作業よりも簡単だと思われます。
よし、明日教授のとこ持って行こー。
今週末にもう一つのチームの『十二夜』観劇を控え、私の中での『十二夜』熱は最高潮です。
なんてったって、寝てもさめてもヴァイオラのことを考えざるを得ない状況…(笑)
机の上には、論文のコピーが散らばってますが、全部彼女についての論文です…何度この名前を読み、書いたことだろう。
ということで、ちょっぴり何か考えて見ましょうか。と思いました。
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ワタシが卒論で扱っているのは、主に『十二夜』における鏡のイメジャリー。
鏡は、外面をそのまま映し出す道具として使われる一方、魔術的に人々の内面や真実を喚起する宗教的な象徴ともされています。
その二つの性質がいかにこの舞台に反映されているかを考えてました。
ちょっと前に見たNINAGAWA十二夜とライフの十二夜の演出は、「鏡」という象徴的なイメジャリーにおける演出ひとつとっても、大分違ったものでした。
NINAGAWA十二夜では、舞台装置がオールミラーで、至る所に客席が反射されているという、摩訶不思議な舞台空間が出来上がっていましたが、今回のライフの十二夜では、さすがに鏡は使われていませんでした。
NINAGAWA十二夜の演出には、これでもかってくらい、「鏡」が押し出されてました。舞台装置もそんなだし、オリヴィアがヴァイオラに渡す指輪も、鏡に変わってたし。
蜷川さんは、きっとヴァイオラとセバスチャンの双子の関係をとても大切に考えていて、(だからこその菊之助の一人二役。女形と立ち役どちらも出来るのは歌舞伎の醍醐味だと思います)二人の外見がそっくりなことによって生じる騒動の発端を、歌舞伎の特性を上手く使って現していました。
現代風の舞台なら、双子を使わないと不可能であろう二人の再会を、早着替えと仮面(これも、白塗りで顔があまり分からない歌舞伎ならでは…)で表現していました。
今回のライフの演出は、そういうところでは蜷川さんの演出とは全然違ったものに仕上がっていたなぁと思いました。
まだ片方のチームしか見ていませんが、このまえの夏夜で押し出されていた、お祭り騒ぎの裏にある悲しさのようなものが、今回も押し出されていたなぁと。
特に、フェステが一人どこか遠くから、お祭り騒ぎを眺めているような構図だったように感じました。
ライフが今回表現したかったのは、主人公たちの人違いの騒動に端を発した内面と外面の問題ではなく(そこのところは、どうしても双子に双子のキャストを使えない以上、難しいですよね)どんなに騒いでいても、それは一時のバカ騒ぎにしか過ぎない、みたいな哀愁があったように思いました。
…歌の歌詞をそんなに覚えていないので、確信はないんですが。。
でも、と思ったのは。
せっかく男性だけの劇団が、女の子が男装する舞台をするのだから、そこのところの性別を偽ることによるアイデンティティの変化にもう少しスポット当てられなかったものかしら、ということ。
何か、せっかく芳樹さんがヴァイオラしてるのに、彼のヴァイオラでは、何だか男性役者が女役をして、さらに男装をしているというダブルトリックの面白さが伝わってきませんでした。
何でだろう。
芳樹ヴァイオラを「芳樹さん」として観てしまっている自分がいたのでしょうか。。
とにかく、何となく自分の中ではちょっとだけ消化不良な演出だったかなと思いました。
歌が前面に押し出してあって、歌に雰囲気引っ張られてたし。
歌に食われてたというか。。
役者さんたちのお祭り騒ぎ加減はとっても楽しくて、観ていて自然と楽しくなっちゃう素敵な舞台だとは思ったんですが、終わった後にふとこうしてまじめに考えてみると、果たして今回は何が伝えたかったんだろう…?と考え込んでしまいました。
きっと、シェイクスピアで論文とか書いてなければ、普通に楽しい舞台です(笑)
それでも、考えられずにはいられない。
何故なら、目の前には十二夜の卒論があるから…!
今週末は同じゼミの友達と観に行くので、彼女とのディベートが楽しみです。
鏡は、外面をそのまま映し出す道具として使われる一方、魔術的に人々の内面や真実を喚起する宗教的な象徴ともされています。
その二つの性質がいかにこの舞台に反映されているかを考えてました。
ちょっと前に見たNINAGAWA十二夜とライフの十二夜の演出は、「鏡」という象徴的なイメジャリーにおける演出ひとつとっても、大分違ったものでした。
NINAGAWA十二夜では、舞台装置がオールミラーで、至る所に客席が反射されているという、摩訶不思議な舞台空間が出来上がっていましたが、今回のライフの十二夜では、さすがに鏡は使われていませんでした。
NINAGAWA十二夜の演出には、これでもかってくらい、「鏡」が押し出されてました。舞台装置もそんなだし、オリヴィアがヴァイオラに渡す指輪も、鏡に変わってたし。
蜷川さんは、きっとヴァイオラとセバスチャンの双子の関係をとても大切に考えていて、(だからこその菊之助の一人二役。女形と立ち役どちらも出来るのは歌舞伎の醍醐味だと思います)二人の外見がそっくりなことによって生じる騒動の発端を、歌舞伎の特性を上手く使って現していました。
現代風の舞台なら、双子を使わないと不可能であろう二人の再会を、早着替えと仮面(これも、白塗りで顔があまり分からない歌舞伎ならでは…)で表現していました。
今回のライフの演出は、そういうところでは蜷川さんの演出とは全然違ったものに仕上がっていたなぁと思いました。
まだ片方のチームしか見ていませんが、このまえの夏夜で押し出されていた、お祭り騒ぎの裏にある悲しさのようなものが、今回も押し出されていたなぁと。
特に、フェステが一人どこか遠くから、お祭り騒ぎを眺めているような構図だったように感じました。
ライフが今回表現したかったのは、主人公たちの人違いの騒動に端を発した内面と外面の問題ではなく(そこのところは、どうしても双子に双子のキャストを使えない以上、難しいですよね)どんなに騒いでいても、それは一時のバカ騒ぎにしか過ぎない、みたいな哀愁があったように思いました。
…歌の歌詞をそんなに覚えていないので、確信はないんですが。。
でも、と思ったのは。
せっかく男性だけの劇団が、女の子が男装する舞台をするのだから、そこのところの性別を偽ることによるアイデンティティの変化にもう少しスポット当てられなかったものかしら、ということ。
何か、せっかく芳樹さんがヴァイオラしてるのに、彼のヴァイオラでは、何だか男性役者が女役をして、さらに男装をしているというダブルトリックの面白さが伝わってきませんでした。
何でだろう。
芳樹ヴァイオラを「芳樹さん」として観てしまっている自分がいたのでしょうか。。
とにかく、何となく自分の中ではちょっとだけ消化不良な演出だったかなと思いました。
歌が前面に押し出してあって、歌に雰囲気引っ張られてたし。
歌に食われてたというか。。
役者さんたちのお祭り騒ぎ加減はとっても楽しくて、観ていて自然と楽しくなっちゃう素敵な舞台だとは思ったんですが、終わった後にふとこうしてまじめに考えてみると、果たして今回は何が伝えたかったんだろう…?と考え込んでしまいました。
きっと、シェイクスピアで論文とか書いてなければ、普通に楽しい舞台です(笑)
それでも、考えられずにはいられない。
何故なら、目の前には十二夜の卒論があるから…!
今週末は同じゼミの友達と観に行くので、彼女とのディベートが楽しみです。
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