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2007'07.05.Thu.00.20
すごく観たかった劇団温泉きのこの「きのこから毛が生えたっていいじゃない ファイナル!」の公演予定日が、ちょうど帰省予定の日とかぶってて、帰省をずらしてお盆の人が多い時期に新幹線に乗るか、舞台を諦めるか、どっちにしようか究極の選択に迫られているさおりです、こんばんは。
うーん…やっぱり混むのヤダしな。でも、ここの劇おもしろいしな。
でもでも、一番期待してたのは、「謡う、相続人」でも「続・謡う、相続人」でも、再演でも何でもいいから、羽田謙治さんがアタシは観たかった…ここの舞台に出てる彼が観たかった…。
っていうか、どこかに彼の出演状況とか載ってないんですかね。彼が観たいのに、情報がないって悲しい。

さて、今日はとても良いことがありました。
某めざましテレビの星座占いはワースト一位だったのにね。
何故かあの占い、ワーストだとその日一日、ものすごくいい事が起こります。謎な星回りです。
で、何が良かったかと言いますと、演劇学の先生とたくさんお喋りできたのです。それだけです。きっと、これを読んでる99パーセントくらいの人にとってはどうでもいい。でも、嬉しかったから語ります。
今日が前期最後の授業だったのです、演劇学。私は演劇学が主専攻じゃないので、これでこの授業も最後だなーなんて思いながら、リアクションペーパーに感想を書いていたら、いつの間にか最後になっていて、待っていてくださった先生と、昼休み中ずっとおしゃべりしてきました。
今度観るNINAGAWA十二夜のことから始まって、演劇の世界での仕事のことや、現代の演劇事情、野田秀樹や別役実、アングラ演劇やスタジオライフ、そして私の研究したいシェイクスピアのテーマについて。
お昼ごはん食べる時間はなくなってしまったけど、すごく有意義な時間でした。
次もその教室での授業だったので、いつのまにか席に着いてた友達たちに、話し終わった後、「すごく幸せそうだったよ」と言われ、自分でも顔がニヤけてたことに気がつきました。演劇のことを考えるだけで幸せなのに、演劇を専門に研究してる先生と語れるなんて、何て幸せなんだろう。

幸せついでにもう一つ。
今日、その授業で近代演劇について学びました。
そこで少しだけブレヒトに触れたので、この前の感想の考察を少し。
先日私は、彼の舞台を「絵本のようなままごとのような」と書いてました。
それは、間違いでもなかったようです。
(拙い知識で知ったかぶりますが)ブレヒトの劇というのは、「異化効果」を狙っていて、つまり「劇とは観客を感動させ、引き込み、同化させるのではなく、冷静になって考えさせるもの」という考えの下に作られているそうです。
「叙事詩的演劇」、つまりは劇をリアルに見せるのではなく、御伽噺や昔話のように、どこか遠くで起こっている架空のたとえ話として見せ、観客には芝居を芝居として捉えさせるのです。そうすることにより、この劇が伝えようとしているものは何か、この劇を観たことによって得るものは何か、冷静に考えることが出来るのです。
ブレヒトは演劇を教育劇と考え、世の中を変えようという力を与えるものだと考えました。
客に舞台との距離を保たせ、感動が大きくなりそうになったら、ハッと目が醒めるような歌や小道具やナレーションで現実へと引き戻す。そんな工夫を、彼はいくつも考え出してきたそうです。
ここで、先日観た「母アンナ・フィアリングとその子供たち」を考えてみると、確かにそのような効果を狙っていたのかもと考えられる箇所が何点か。
袖のない舞台にすることにより、出番を待つ役者が見えたり。
小道具のほとんどがカバンだったり。
明らかにロックテイストの歌がはさまれたり。
後ろで生の演奏がされていたり。
アコーディオン奏者がそのまま舞台に上がって役者と混じってみたり。
いるはずのない人が黒子のように普通にまぎれてたり。
ナレーターが章の最初に、いちいち結末までネタバレしていったり。
どうしてこんなことするんだろうと思っていたことが、「異化効果」という言葉で全て解決できたような気がしました。
全ては、観客に「これは舞台なんだよ」と何度も何度も警告してたのですね。
けれども、そんなブレヒトの舞台にも矛盾点は存在します。
どうしてこんなにも「異化効果」を狙っているのにもかかわらず、観客は感動してしまうのか。
本来ならば、ブレヒトの考え方だと、観客は彼の舞台を観て、決して感動してはいけないはずなのです。
彼が求めていたのは「冷静に考える」ことであり、「感動してストーリーに入りこむ」ことではないのです。
ここは彼の考えの欠点であり、しかし同時にブレヒトの作品が現代でも演じ続けられている理由だと思います。
冷静に考えさせられないくらい面白い話だからこそ、21世紀の今上演しても充分に受け入れられる。
ブレヒトの目指した「叙事詩的演劇」は、彼の演出の方向性としては正しかったのでしょうが、彼の書いた作品には向いていなかったのではないでしょうか。

確かに結局は「感動した」という感想を持ってしまうブレヒトの作品ですが、私は彼の考え方はあながち間違っていないなと思います。
例えば同じ「トーマの心臓」でも、ユーリに感情移入して泣きまくった回と、冷静に原作との比較をしながら頭の中で台詞を追いながら観た回とでは、残るものが全然違うように思います。
やっぱり、後者の方がいろいろなことを考えて、たくさんの答えが出る気がする。
生きるって何か、愛って何か、ユーリやエーリクやオスカーの行動から考え、私も明日は人を無条件に好きになってみよう、とか、人はやはり完全な悪にはなれないものなのだ、とか、そんな些細なことでも考え、それが生きる希望に繋がる時、それがブレヒトの目指した教育劇というものだと思うのです。
そうして劇を観てたくさんのことを考え、それを生きる希望にしたとき、演劇を糧となると思うのです。
確かに、演劇というリアルな虚構に逃げ、あたかも自分がそれを体験したかのように感じることが出来るのが演劇の利点だという考えもあると思います。
けれども私は、やはり演劇というたくさんの要素が詰まった芸術を考察しないのはもったいないと思うのです。
むしろ、考えないと、観た意味がないのではないかと私は思うわけです。
ただただ笑える喜劇や、歌を楽しむミュージカルは別としても、19世紀末から登場してきたイプセンを初めとする新しい演劇たちは特に、そうやって考えてもらってこそ生きるものなのではないかと思うのです。
逆に、現在はビジュアルや奇抜さばかりを狙って、考察されることすらも拒否しているような演劇もあるにはあるような気もしますが…それはまた、そういう時代の流れなんでしょうね。

……さて、どうなんだろう。
これ、正しいのかな。
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すごいすごい!
いや~今日のお話はほんとうにすごいです!面白く読ませていただきました~。
さおりさんの考察とてもわかりやすくて賛同することがいっぱい。
結局私がひかれる舞台もそれなんだということがさおりさんの言葉で確認できました。感動しながらどこか冷静な自分がいて
深いところで批判したり考えたりしている。それが快感だったりする。演劇も形のちがう哲学だと思ういます
ミモザ☆: 2007.07/07(Sat) 09:19 Edit
こんなに長いのに
読んでくださってありがとうございます!それだけで感動です。
そうなんですよね、やっぱり全て入り込んでしまうのではなく、少し離れたところから観ている自分というものがいるからこそ、いろいろと考察できて、楽しめているのですよね。考えること自体が楽しいというか。
ホント、演劇も哲学ですよね。答えはでないかもしれないけど、考えることに価値があるのです。
さおり: 2007.07/08(Sun) 02:16 Edit
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